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私にとって、今年のハイライトは「大検受験」だった。

なんて、今年はまだ4ヶ月もあるし、大検は11月にもあるけれど、お正月に立てた今年の年間予定の中で、8月前半の大検受験は、私の中では、かなりのウエイトを占めていた。

正念場、である。

中学2年までの勉強しか分からない私が、何十年ぶりに国語とか数学とかを独学でやって、それで合格しようとしているんだから、無茶な話というか・・・。仕事もバンドもやり続けながら、並行して勉強して、自分としては、肉体的にも精神的にも、脳みそ的(?)にも、かなりギリギリの状態だった。でもベストを尽くして、チャレンジしてみたかった。

試験を終えて・・・。気付いた事がある。

それは、私が「正念場」を迎えると、私と関わってくださる周囲の方が、2つのタイプに分かれるということだ。

気持ちよく私を「正念場」に集中させてくれる人と、そうでない人と。

「そうでない人」というのは、別に悪気があるのではないだろうが、どういう訳か私が正念場に集中するのを、邪魔したり足を引っ張ったりする。正念場に対して使おうと思っている私の時間を、奪うような行動をとる。

本当に面白いんだけれど、今回の大検に関しては、願書の記述から試験が終わるまで、「そうでない人」というのは一貫して「そうでない人」で居続けた。それに接して「頼むから試験に集中させてくれ〜」と、何度心の中で思ったか分からない。

いや、心の中だけでなく、実際に「勉強するので、あなたと遊ぶ時間はとれません」とか、そんな内容のことを告げて断っても、それでも無視して、私の時間に割り込んできたりした。

そして、またまた面白いんだけれど、「そうでない人」は、いま、私の側にいない。みんな、去っている。または去ろうとしている。

昨年、これからは自営で仕事をしよう!と、独立開業する正念場を迎えた時も、同じだった。私から見ればだけれど「そうでない人」は、邪魔したり足を引っ張ったりして、それから去っていった。

こんな風に、正念場を迎えると、その人が「遠くに行ってしまいそうで寂しくて」邪魔をしてしまう人がいる。

寂しいから、そういう行動をとってしまうんだろうなぁというのは理解してあげられるけれど、その寂しさを消滅することができるのは、自分だけだ。誰かが代わりに、寂しさを紛らわしてあげることは出来ても、寂しいという想いを消すことはできない。それは、自分にしかできない。

だから、親しい人が正念場を迎えた時に、もし寂しさを感じたら、寂しさをぶつける前に、何故寂しくなるのか?を考えてみて欲しいと思う。

一緒の時間を過ごす時間が減ってしまう寂しさ、置いていかれたような寂しさ、自分の手から離れていってしまうような寂しさ、色んな感情が湧いてくるだろう。

それを深く見れば見るほど、そこには、対その人への感情だけでなく、自分の生き方とか人生に対する大きなヒントが隠されているように私は思う。

「正念場」というのは、それを迎える人はもちろん、その周囲の人にとっても「正念場」なのかもしれない。なーんて思った。